惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と秀吉⑥)



天正九年十月、信長は前田利家能登の国に知行を与えます。そして越
前での知行分を菅谷長頼に渡し、妻子、部下とともに、守備するすべての
城と部下の私邸も残らず菅谷に渡し、移住することを厳命します。

十一月、同じく秀吉、中川清秀に対し、西国二ヶ国を与える御朱印を発給
します。急速に制圧地における領土管理体制が構築されはじめています。

天正十年、安土城における、初頭の年賀の儀は、本年は軍備に金がか
かるゆえ質素にとりおこなうよう信長から触れがだされています。
まさしく決戦の一年のはじまりでした。この年にかける信長の意気込みを
感じさせます。

三月一日、信長は信忠軍の副将河尻秀隆あてに、五箇条からなる甲斐
討伐の指示を出し、信忠軍は信州高遠城に籠る仁科盛信に対し猛攻を
開始します。高遠城は一日しか持ちこたえられず盛信は討ち死にします。
更に、武田一族である、穴山信君が家康に内応し、信長の出陣を待たず
して、戦いの帰趨は決まりました。

三月三日、明智軍は信長出陣の先発として、信州にむけて安土から出
陣します。明智軍は他の部隊にくらべて数が多く、華麗であったといい
ます。四日に大和の筒井軍が発進し、五日未明に信長本隊が、近衛前
久、光秀らとともに信州に向かっています。

武田氏を滅亡させ、返す刀で毛利氏と長宗我部氏に向かう、織田軍に圧
倒的な軍事力を感じさせられます。