惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑤)



永禄十一年、足利義昭は信長の軍事力を背景に入京し、室町幕府十五代将軍に就任
しました。それ以前岐阜城において、信長と義昭のあいだで、どのような話し合いがなさ
たのかは窺い知ることはできません。

義昭は、兄義輝同様、将軍権力の再生と室町幕府の威信回復を目指し、三好一族が駆
逐された都で、幕府再興の方策を実施していきます。義昭は空白になった五畿内の領地
を、かっての幕臣に与えその権力強化に努めます。

そうした旧幕臣たちに対して、軍事動員令を発動し、新たなる奉公衆となる、将軍直属の
軍事組織を構築します。少なくとも、信長、義昭の連繋初期は、足利幕府の威光は一時
的にしろ、回復のきざしをみせ、近畿一円をその支配下におきます。

更に、義昭は将軍として、全国規模の行動にのりだし、大名間の紛争の調停をおこない
幕府権力の強化を加速させました。これは大名間の私的な戦闘を、公的な機関である
幕府が収束させることで、幕府の優位性を全国的に示すものでもありました。

信長としては、義昭が信長の傀儡政権を構築してくれるのが目的であり、このような義
昭独自の、幕府権力強化の動きは到底看過できるものではありませんでした。

信長は義昭に対する締め付けを強化しますが、義昭は反発を強め、元亀三年入京四年
にして、信長との武力対決を試みますが敗退します。

これにより、室町幕府は実質的に消滅しますが、義昭の再構築した、幕府機構と奉公衆
はのちに、光秀が統括していくこととなります。そして山崎の合戦において、その多くが
討ち死にしています。



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