惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑥)



文和八年(1361年)七月付けの醍醐寺文書に、尾張国海東郡保分例名における正
税を地頭土岐明智伯耆守が押領したとの記載があり、現在の愛知県蟹江町清洲
町近辺の土地に、明智氏が地頭として勢力を張っていたことがわかります。

この明智伯耆守は長山(明智)頼基の女婿であり、頼基は美濃可児長山に所領を
持ち、この頃は長山氏を名乗っていたようです。この長山氏には、美濃国本巣郡
本貫地とする、土岐氏一族の別の流れがあり、こちらは尾張国守護代となってい
ました。

このように、土岐氏嫡流は美濃のみならず、尾張そして伊勢の守護をかね、勢力は
強大で土岐一族の所領は拡大しました。しかしその勢力拡大を恐れた幕府により討
伐をうけ、土岐氏は最終的には、美濃一国の守護となり続いていきます。

これと同時期に明智氏も、その本貫地である、妻木、多治見、可児周辺へと戻った
のでしょう。

可児郡土田の土田氏、津島の津田氏、そして長山の明智氏の関係性の断片が見
えてきますが、この時代は、武家も農民等も、ダイナミックに居住地を移動し地縁、
血縁を形成していたのでしょう。江戸時代の固定されたものとは、明らかな違いを
感じます。光秀の時代から二百年近くも前のことですが、尾張と美濃の関係性を知
る為に述べてみました。