惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料⑥


右、軍役雖定置、
猶至相嗜者寸志茂不黙止、併不叶其分際者相構而可加思慮、然而顕愚案
條々雖願外見、
被召出瓦礫沈淪之輩,剰莫太御人数、被預下上者、未糺之法度、且武勇
無功之族、且国家之費、頗似掠奪公務、云袷云拾存期嘲、対面々重苦労吃、
所詮、於出群拔萃粉骨者速可伝達上聞者也、仍家中軍法如件 

天正九年六月、光秀は、家中の軍装や陣中での作法を、下の写真のように定
めました、これを明智軍法といいます。

この中で重要なことは、京枡(京都法度之器物)による石高制に基く軍役負
担を明記したことです。織田家中の他の武将の軍法が、残っていないので比
較はできないですが、光秀の領国である丹波は、丹波制圧の過程で、国人を
ほぼ殲滅したことにより、いわゆる一職支配がいきわたり、領国支配が円滑
に行われていたようです。坂本領支配に比べ、丹波一国は広く、光秀も領国
経営に注力したことがみてとれます。

上記の文章は、この軍法の末尾に書かれていて、光秀の所信表明みたい
なもので、自分を取り立ててくれた、信長への感謝の気持ちが、述べられて
いるともとれるのですが、全体をよく読んでみると、既に兵士として召抱え
た値打ちのない輩に対して、武勇をたてねば、国費の無駄使いであるとか、
公共物を盗む様だとか、過剰人員の中礼儀知らずなお前らを雇ってやったと
言っているようにもとれ、粉骨砕身働けば、私の耳に入ると言っているよう
です。又この軍法が書かれた時はまだ未発布だったようです。その後神社の
境内に下知札が立てられたのでしょう。

(費=無駄使い)(公務=公共物)(云*強調詞--=落ちている服を拾う
行為は嘲笑をうけるぞ)(対面々--=すべての面で苦労を厭わず努力した
ものだけが、所詮、上のものに其の努力が伝わるだろう)。この文章がひど
くわかりにくいのは、闕字といい目上の者を記す時、其の前を一字分空欄
にするという決まりがあり、公、上が信長をさしていることに由縁してい
ます。

独断で奪、達といれてみたのですが、こうすれば信長をさすものでなくな
り文章の繋がりは生まれます。光秀は織田家中の新参者であり、家中の人
間関係に敏感であるという説にたてば、文章内に信長への配慮があってし
かるべきであるのですが、私は光秀のこの文書は、領国内の兵士に対する
注意勧告であり、光秀自身の事を述べているのではないと思います。



明智光秀家中軍法) 御霊神社文書
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