本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑪)
そこで明智光秀惟任は多年の宿怨一朝に晴れ、今は心置くこともなければ、いざ自殺
せばやと、仏殿に参じ( 中略 )、比時妙心の小僧(太嶺院の慈澤)が光秀の気色
を悟り、日比、三宅の二将に告げ其の自刃を諌めた。
さるほどに妙心の使僧は内裏に参じ、時の伝奏難波中納言宗豊に光秀の為四方征討
の勅許をば仰いだーーーーー
に限ってみれば興味深いものがあります。
妙心寺日單簿によれば、文禄三年六月十四日に光秀の十三回忌が挙行されたとある。
光秀の関係者により執り行われただろうが、誰が参加していたのでしょうか。
派の拠点であり、末寺が多数存在します。
において、織田信忠により焼殺されます。
光秀と快川和尚との関係性は不明ですが、光秀も信長とともに、甲斐へ赴いています
から、旧知のなかであれば光秀は、その再会を楽しみにしていたことでしょう。