惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑪)



妙心寺史」には以下の記述があります。

かくて六月二日の黄昏頃、光秀が軍勢一同は勝鬨を上げて我が妙心寺に引き取った。
そこで明智光秀惟任は多年の宿怨一朝に晴れ、今は心置くこともなければ、いざ自殺
せばやと、仏殿に参じ( 中略  )、比時妙心の小僧(太嶺院の慈澤)が光秀の気色
を悟り、日比、三宅の二将に告げ其の自刃を諌めた。
さるほどに妙心の使僧は内裏に参じ、時の伝奏難波中納言宗豊に光秀の為四方征討
の勅許をば仰いだーーーーー

とある。「妙心寺史」内にある明智氏系譜等の記述は、信頼性が低いが、妙心寺関係
に限ってみれば興味深いものがあります。

妙心寺日單簿によれば、文禄三年六月十四日に光秀の十三回忌が挙行されたとある。
光秀の関係者により執り行われただろうが、誰が参加していたのでしょうか。

妙心寺と土岐明智氏の繋がりは深く長い。現在でも岐阜県東濃地方は臨済宗妙心寺
派の拠点であり、末寺が多数存在します。

妙心寺43世は快川紹喜であり、土岐一族の出身といわれる。天正十年、甲斐恵林寺
において、織田信忠により焼殺されます。

光秀と快川和尚との関係性は不明ですが、光秀も信長とともに、甲斐へ赴いています
から、旧知のなかであれば光秀は、その再会を楽しみにしていたことでしょう。