惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人①)


日本における「天下」の概念は、中華思想に基づいています。秦、漢、
王朝時代に成立し、皇帝のいる場所と、その支配下にある地域を指し
ました。

この概念は、日本には律令制の導入とともにもたらされ、天下とは天
皇が主宰する国家、地域をいいました。

律令制が崩壊しはじめると、天下の意味は変質していきます。

鎌倉幕府の成立を「天下の草創」とみなした、源頼朝のように、その
国家、地域を実効支配する幕府体制を指すようになりました。

室町幕府において、足利義満は「日本国王=冶天」と自らを位置づけ
天皇制とは独立した、国家支配体制を明確化しました。

しかし幕府が弱体化し、戦国時代が到来すると、天下の概念は矮小
化され、天下とは朝廷と幕府のある京都とその周辺地域を、指すよう
になりました。

信長は美濃を支配下におくと「天下布武」の思想を、その行動原理の
根幹に据えます。

この天下とは、本来ある意味に戻したもので、日本を武力により再統
一するとの意志であり、信長の思想の根源には、中国の思想、政治
形態が理想として存在したことがみてとれます。

これは安土城天守の最上階の様子からもわかります。

信長公記」はこう記しています。

上七重メ、三間四方、御座敷ノ内、皆金ナリ。ソトガハ、是レ又金ナリ。
四方ノ内柱ニハ、上龍、下龍。天井ニハ天人御影向ノ所。御座敷ノ内
ニハ、三皇、五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢ナドヲカカセラレーーー

中国の皇帝の象徴である龍が描かれ、中国政治、思想が凝縮された
空間は信長の理想郷そのものであったでしょう。