惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史①)


信長公記」によると、信長は

十六、七、八マデハ、別ノ御遊ビハ御座ナシ。馬ヲ朝夕御稽古、
又三月ヨリ九月マデハ川ニ入リ、水練ノ達者ナリ。其ノ折節、
竹鑓ニテ扣キ合ヒヲ御覧ジ、

とあり、十八ぐらいまでは、連歌などを嗜む事無く、朝夕乗馬の稽古
をし、春先から川に入り身体を鍛え、泳ぎの達人であり、近侍する者
達に、軍事教練をさせていたようです。

更にこう記されています。

又市川大介メシヨセラレ、御弓御稽古。橋本一巴ヲ師匠トシテ鉄
炮御稽古。平田三位不断召シ寄セラレ兵法御稽古。御鷹野等ナリ。

信長は、弓の稽古、鉄砲の稽古、そして兵法を学んでいます。
そして鷹狩を行い、軍事演習に邁進しています。

これらは信長だけの特殊な趣味ではなく、戦国時代の武将の子弟
は、ほぼこのような生活を送っていたと思われます。

肉体を鍛錬し、乗馬訓練を欠かさず、弓、鉄砲を熟知し、兵法を学
び、近侍する若者達に鑓を使わせて、兵の運用を実習し、鷹狩に
でて擬似戦闘を経験します。

これらの基礎の上に、元服後は小規模な戦闘に参加し、経験を積ん
で一人前の武将に育ち、大規模な部隊を指揮できるようになります。

秀吉のように、このような環境に育たず、大軍団を指揮する者もあ
りましたが、秀吉には数十年におよぶ、実戦経験があり、大軍の
運用を熟知していました。

光秀は、信長の家臣になってすぐに部隊の指揮を任されています。

軍事天才信長の下で、軍事作戦に従事するには、それなりの能力
が要求される事は明白でしょう。実戦経験が豊富かどうかは別にし
て、光秀が武を専らにし、そういった環境の中で育つたことには疑
いがありません。

小牧長久手合戦図屏風
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