惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史②)


戦国武将は、刀の試斬を生身の人間で行う事が一般的であり、殺人
行為に習熟するのが目的でありました。

木下延俊は高台院の甥で、小早川秀秋の兄にあたりますが、彼の慶
長十八年の行動は、祐筆らにより克明な記録が残されており、武将
の日常を、詳細に知る事ができます。

一月十六日の記述には

中河左平太殿ヘタメシ者御見物サレニ御座候。囚人ノ主本田出羽也。

とあり延俊は囚人の試斬を見物に行っています。
更に四月一日の記述では

昼伴道雪御見廻ニ御出候。日暮レ候テ与三左衛門ノ刀御キリ成サレ候。
道雪ノ手ニテ一ノ胴オチ申シ候。殊ニ大キナル胴ニテ候。ツネヨリタカ
ク御キリ成サレ候。

とあり、延俊は道雪という武士とともに試斬を行い、道雪が首を落とし
た胴を、与三左衛門作の刀で、いつもより深く斬ったとあります。


家康の十男頼宣が、名刀備前長光の切れ味を、立袈裟で試した時

快ク斬ッテ其ママ立タルヲ、ツキ給ヒケレバ、ニツ也テ倒レケリ、左右
一同ニ驚入ルバカリナリ

とあり、名刀の切れ味の凄さが「常山紀談」の中で語られています。

信長は、都で館を建設中の折、訪問していた宣教師と立ち話をしてい
た時、目敏く無礼を働く下人を見つけ、即刻自らその者の首を切り落
としたと宣教師は記しています。

戦国時代の武将は、殺人を職業とし、殺人行為の連鎖の中で、自己
の勢力を拡大していきました。