続濃州余談②
これが天皇と信長の長い付き合いの始まりでした。
百貫を献上し、天皇・公家領の知行を保障したうえに御所の修理に取
りかかります。
困窮の極みにあった天皇・朝廷にとり、救世主到来以外の何者でもな
かったでしょう。
この当時、天皇家の経済的困窮は筆舌に尽くし難く、葬儀費用不足の
為、後土御門天皇の遺体は、四十九日間御所内に放置され、後柏原
天皇に至っては棺桶が到着したときには、猛暑の影響もあり遺体が膨
張して棺内に入らない状態であった、と記されています。
応仁の乱以降の全国的な混乱が貧困に至る主な原因でしたが、根底
影響がそこには見られますが、幕府自体が苦境に立たされると朝廷へ
の財政援助を打ち切ります。
朝廷は後柏原天皇の即位礼の為に、五千貫の費用の供出を幕府実力
者細川政元に依頼します。
政元は大袈裟な儀式は不要と突っぱねます。朝廷にとって即位礼や大
深刻でした。
そこに登場したのが信長でしたが、その朝廷重視政策の根源には、足
利義昭との対抗上、より上位の権威である朝廷・天皇を利用する目論
見がありました。
しかしそれらは、信長と義昭の対立が顕在化した以降のことであり、元
亀二年には、信長は上、下京の町衆に米を貸し付け、その利息(毎月十
三石)を禁裏供御料として、朝廷の金庫に入るようにしてその財政安定
化を図っています。
この仕事にあたっていたのが光秀で、朝廷の金庫番であった山科言継
との関係性がよく理解できます。(濃州余談㉚)
くれた、と手放しで喜んでいます。即位礼の費用を出すと信長が約束して
くれたのでしょう。
しかし信長はこの約束を、今年は忙しいという理由で簡単に反故にしま
する態度がこの後微妙に変化していきます。
すでに天皇・朝廷の経済力の基盤はすべて信長の手に握られていました。