惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談②


永禄十年(1567年)、正親町天皇美濃国支配下においた信長
に対して、尾張、美濃にある天皇領の回復や御所の修繕費そして誠
親王元服費用の捻出を要請します。

これが天皇と信長の長い付き合いの始まりでした。

翌年信長は足利義昭を奉じて上洛します。天皇は勅使を派遣し上洛
を祝し、信長も「禁裏御不便」として百貫、誠仁親王元服費用として三
百貫を献上し、天皇・公家領の知行を保障したうえに御所の修理に取
りかかります。

困窮の極みにあった天皇・朝廷にとり、救世主到来以外の何者でもな
かったでしょう。

この当時、天皇家の経済的困窮は筆舌に尽くし難く、葬儀費用不足の
為、後土御門天皇の遺体は、四十九日間御所内に放置され、後柏原
天皇に至っては棺桶が到着したときには、猛暑の影響もあり遺体が膨
張して棺内に入らない状態であった、と記されています。

正親町天皇の父後奈良天皇の遺体は、御所内に二ヶ月半も留め置か
れ、その即位礼は毛利元就の二千貫の献金により三年後にやっととり
おこなわれる始末で、正親町天皇も又まぎれのない貧乏天皇でした。

応仁の乱以降の全国的な混乱が貧困に至る主な原因でしたが、根底
には室町幕府天皇・朝廷に対する冷淡な対応がありました。

後醍醐天皇の政治、南北朝の混乱、そして足利義満天皇軽視等の
影響がそこには見られますが、幕府自体が苦境に立たされると朝廷へ
の財政援助を打ち切ります。

朝廷は後柏原天皇の即位礼の為に、五千貫の費用の供出を幕府実力
細川政元に依頼します。

政元は大袈裟な儀式は不要と突っぱねます。朝廷にとって即位礼や大
嘗祭といった、天皇の正統性を担保する儀式の開催不能という事態は
深刻でした。

そこに登場したのが信長でしたが、その朝廷重視政策の根源には、足
利義昭との対抗上、より上位の権威である朝廷・天皇を利用する目論
見がありました。

しかしそれらは、信長と義昭の対立が顕在化した以降のことであり、元
亀二年には、信長は上、下京の町衆に米を貸し付け、その利息(毎月十
三石)を禁裏供御料として、朝廷の金庫に入るようにしてその財政安定
化を図っています。

この仕事にあたっていたのが光秀で、朝廷の金庫番であった山科言継
との関係性がよく理解できます。(濃州余談㉚)

天正元年、正親町天皇誠仁親王への譲位の意向を信長が受け入れて
くれた、と手放しで喜んでいます。即位礼の費用を出すと信長が約束して
くれたのでしょう。

しかし信長はこの約束を、今年は忙しいという理由で簡単に反故にしま
す。この年、信長は足利義昭を都から追い出しており、天皇、朝廷に対
する態度がこの後微妙に変化していきます。

すでに天皇・朝廷の経済力の基盤はすべて信長の手に握られていました。