惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ⑦)



天正九年十月廿九日、信長は下野国の豪族皆川広照宛に朱印状を
発給しています。

皆川氏は小山氏の流れを汲む名門であり、広照は堀秀政を取次とし
て名馬を信長に献上しました。

馬一疋到来候、誠遼遠之懇志、悦喜無他候、殊更葦毛別而相叶
心候、馬形・乗以下無比類、彼是秘蔵不斜候ーーーーーーーーー

        長沼山城守殿(皆川広照)        信長(朱印)

広照は三頭進上したのですが、信長は葦毛を大変気に入つたようで、
馬形、乗り心地のよさを絶賛しています。

この朱印状には堀秀政の副状が付き、さらに覚書案まで残っており、
そこには

下つけの国みな川と申もの、いまた御礼不申上候、冥加の為ニ御
座候、御馬三進上申度候由候てひき上申候---------

皆川広照がやっと馬三頭を献上してきたとあり、遠国の豪族に対して
も、臣下の礼を強要していたことがわかります。

十一月には、徳川家康も皆川広照宛に書状を送っています。

今度安土為御音信、馬御進上候、遠路之儀、御造作令推察候、併
信長馬共一段自愛被申、御使者等迄、各馳走可申------

        皆川山城守殿                 家康(花押)

とあるように、信長が馬を気に入ったことを告げ、安土への使者を歓
待することを伝えています。

信長の高圧的な態度と比較して、細やかな気遣いが感じられ、硬軟
取り混ぜた織田方の調略活動をみてとれます。

これらは、来るべき甲斐、信濃侵攻に備え、北条氏の動きを監視する
のが主目的ですが、このように関東の豪族は名馬を安土に送り、信長
に臣下の礼をとりました。

これらの名馬が馬揃において披露されたのですが、その様子を「信長
公記」はこう記しています。

信長家臣団、公家衆の行進の後

御馬牽カセラレ候次第ーーーーーーー比ノ御馬ト申スハ、奥州津軽
日本マデ、大名・小名ニヨラズ、是レゾト申ス名馬、我モ貼ト、ハル貼
牽キ上セ、進上候。余多ノ名馬ノ中ニテ勝レタル御馬ナリーーーーー

とあるように、献上された名馬の中から六頭が選ばれ、厩奉行青地与
右衛門の指揮のもと披露されました。

一番目は鬼葦毛で、その周囲に小者を従えて披露されました。
皆川広照が送った馬とは別物ですが、信長は葦毛がお気に入りだった
ことがわかります。

信長は細川忠興が探し回って献上した、紅梅に白檀、段々の桐唐草の
模様の小袖を着て、唐冠の頭巾をかぶり、派手な衣装と趣向で登場しま
す。

このイベントが面白いものであったことは確かなようで、正親町天皇は馬
揃が開催されている間、十二人もの勅使を信長のもとに遣わし、面白き旨
の御綸言を伝えています。

いろいろありますが面白いものは面白い、といったところでしょうか。

馬揃開催にあたり派生した政治的問題は別にしてイベント自体は大成功
で、馬揃奉行光秀もほっとしたことでしょう。

結局よく考えてみると、この馬揃には公家衆が参加しており、無官の信長
が彼らを統率するのは不適切であり、とりあえず左大臣に就任してくれ、と
いうのが、正親町天皇の素直な気持ちだったのでしょうが、信長はそれを
逆手にとり天皇の退位を要求します。

信長には、すでに天皇と対等であるという認識が、生まれていたことがわか
ります。

三月五日、一週間を待たず、信長は再度同じ場所で馬揃を開催します。
天皇の希望によるとありますが、「兼見卿記」によれば

禁中女中衆其外御所々々之御衆各御見物ーーーーーーーー御方御所
女中衆之内御忍御見物々々------

とあり、宮中の女性たちが多数見物に来ていたようです。

信長もなかなか気が利くところがあります。

八月一日、信長はまたしても安土で馬揃を開催します。この時もお気に入り
の葦毛にまたがり、赤いマントを羽織り登場します。

たびたび行われる馬揃は、完全に信長の趣味の世界であることがわかり、そ
の偏執的な性格がみてとれます。

同月六日には会津の葦名盛隆が名馬を献上しており、名馬を駆けさせ、全国
平定戦を完結させる、との信長の意気込みが感じられます。



 皆川城跡
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