本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とは何か③)
り、恵奈郡に含まれ、摂関家を中心とした初期荘園の一つでした。
遠山荘安岐郷は山深い地であり、この地は切り開かれて荘園領主に分
割され、そういった土地を明地といいました。(光秀の出自とその前半生⑥)
加藤景廉が地頭となり、その子景朝が遠山荘に入り名を遠山と変えました。
この後も遠山荘は近衛家により伝領されましたが、遠山氏が地頭請として
この地を実効支配しており、苗木、岩村、明知の三氏は遠山三家と呼ばれ
明知遠山氏は手向郷内明智上下村、荒木村、窪原等を地頭として支配し
ました。
この明智氏は遠山一族として幕府奉公衆となっています。又この明知遠山
可児に存在したといわれる明智氏はその実体は見えにくいのですが、遠山
の方は、その存在を史料的にも確認できます。
私個人的には、この明地を本貫地とする明智氏の分流が、妻木に移動し、
ってしまいます。
このあたりの事は、私自身でこの地に足を運びそれなりに史料を集めまし
たので、別のプログで発表していこうと思っています。