惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊿

 
 
 

望月華山氏編「時衆年表」内の、応永二十年(1413年)五月の項に

高野山の僧徒聖方の念仏を制禁すとあります。

高野山真言宗金剛峯寺山号であり、空海以来、庶民の信仰を
集めた密教寺院で、いわゆる東密の中心的な修行道場でした。

聖とは、時衆系(浄土宗)の僧侶で、一遍以来の念仏踊り高野山
内においても、日常的に行われていたのかもしれません。

同書内、天文三年(1534年)一月の項には、

時衆聖派出身の宥雅第百八十二世高野山検校となるあります。

検校とは寺院内事務方のトップの職名で、東大寺、東寺などにお
かれて、財政を統括しその権力が座主を上回ることもありました。

時衆が真言宗寺院内で大きな力を持っていたことがわかり、天台
延暦寺内でも、その末寺には多くの時衆が存在し寺務の運営に
携わっていました。(奉行衆・奉公衆㊱)

現在の感覚からは考えにくいことですが、当時は密教寺院内に、鎌
倉仏教顕教)の僧が同居していました。

これは、黒田俊雄氏が提唱する顕密体制理論により説明できるの
ですがここでは述べません。

光秀が時衆と深く関った人物であることはすでに述べています。織田
信長は天正九年(1581年)八月、織田領国内の高野聖千三百名を捕
え、京都七条磧外三ヶ所において処刑しました。

処刑者数の実数は各資料によりばらつきがあり、その原因も荒木村
重一党を高野山が匿っていたとの説が有力ですが、その対象がなぜ
時衆系の僧侶あるいは、半僧半俗の聖を含むものであったかは確と
しません。

翌年の甲斐恵林寺における、快川国師をはじめとする禅僧焼殺事件
とこの事件に光秀はどのような感想を持ったのでしょうか。
(続濃州余談④)