惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㊷)

 
 
 

美濃國立政寺は、智通上人により開山され、永禄年間、美濃にお

ける時衆寺院の中心として、末寺を多く抱える大寺院でした。

永禄十一年(1568年)、還俗した足利義昭は立政寺に対し、禁制を
発し、寺門前に掲げます。
           
一、軍勢甲乙人等亂入狼籍事、
一、陣取寄宿事、
一、伐採竹木事、

右條條、堅被停止之訖、若有違犯之輩。速可被處厳科之由、
所被仰下也、仍下知如件。
                  永禄十一年九月六日
                  散位平朝臣(花押)
                  左兵衛尉神(花押)

発給者である両名は、幕府奉行人の松田秀雄と諏訪俊郷で、義
昭に同行して美濃まで来ていました。

立政寺で義昭は、織田信長と面会し、上洛戦が開始されるのです
が、立政寺が時衆寺院であり、義昭陣営が禁制を発給しているこ
とから、これら一連の会見への道程が、足利義昭側の時衆関係者
すなわち光秀、細川藤孝らと同朋衆により開かれていったと推測で
きます。

これより四日後、義昭は洛中阿弥陀寺、清玉上人に対し、以下の
文書を発給しています。

阿弥陀寺敷地事、以方々寄進、建立寺家云々、早仁当地行
之旨、弥進止之、可被専勤行之由、所被仰下也、仍執達如件

              永禄十一年九月十日
                  丹後守(松田藤弘)花押
                  備前守(中沢光俊)花押
                                 清玉上人

信長上洛以前に、幕府奉行人から都の時衆寺院に、優遇策がなさ
れるのは、時衆のネットワークとその関係者が信長と義昭の和合に
大きく貢献したということかもしれません。(奉行衆・奉公衆㊶)