惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀の出自と前半生③)



光秀を明智氏嫡流であると考える研究者も多い。この説は光秀の父光綱は早世し、
弟の明智入道に養育され、斉藤道三の正妻小見の方が光綱の妹であったことから、
斉藤家の内紛に巻き込まれ、可児長山城は攻撃され、入道を始め、一族討ち死にし
落城したというものである。この時光秀は入道から明智家の再興を託され、入道の
子息とともに落ち延びたという。その後光秀は母の在所である、若狭武田家をたよ
り、全国放浪ののち、越前朝倉氏に仕官したこととなります。

確かにこの説によれば、道三と小見の方の娘は、織田信長正室井口殿となり、光秀と
井口殿はいとこ同士となり、光秀の織田家中での、異常とも思われる出世の裏づけとなる。
光秀を考える場合、極めて整合性があるが、あまりに出来過ぎていて更なる研究が必要で
あると思えます。

この可児長山の地は、光秀に関係する人物が多くかかわる場所である。信長の実母土田
御前は、父信秀の正室であり、生誕した土田城は長山城から西へ2kmほどの場所にある。
信長嫡男信忠を産んだ、生駒吉乃は、信長と知り合う前は、土田弥平次の妻であり、長山
城落城のおり弥平次が戦死し、その後、在所である小折の生駒氏に戻り、信長と知り合う
こととなる。明智氏と土田氏は縁戚関係にあるといわれ、ともに土岐氏の被官人であるこ
とは確実です。

真偽のほどは不明だが、「武功夜話」にこの戦いの記述があります。この土田氏と生駒氏
は共に、木曾川沿岸の陸水運業を生業とし、油の商いを介して密接な関係があり、生駒氏
が土田氏より養子をもらいうけたことで、土田氏も土田生駒氏と名乗りました。又信秀の
母も土田一族でありました
信長と同じく、土田御前の子である信行の子、織田信澄は、光秀の娘をめとります。

長山城から北の方向にいくと、名鉄広見線明智駅がありそこからすぐのところに可成寺
がある。森可成は信長の東美濃進出に伴い、この地に金山城を築いたがその後近江の国
での朝倉勢との戦闘で嫡男長隆ともども戦死した。可成寺には両名の墓がある。その後
三男森長可がこの地を治め、飛騨の国への移封後、金山城はその弟森成利に与えられた。
成利は蘭丸として世間に知られ、本能寺で信長とともに光秀軍に討たれました。


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