惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀の出自と前半生④)



長山城に居住したという、明智宗家ならびに嫡男光秀の足跡はたどれないが、明智
一族となれば意外とその活動は室町幕府の中に散見できる。すこし専門的になりま
すがこのあたりは大事なことなので話します。文明十六年(1484年)に、幕府内
では将軍足利義尚主催の連歌会が催され、明智頼宣が参加しています。

その他幕府に関する一次資料に、明智頼連、明智兵庫入道玄宣、明智中務少輔
宣等の名前があり、明智一族が都にいたことがわかります。

これは土岐宗家の侍所頭人就任以来、家来筋になる明智氏幕府奉公衆となったり、
土岐宗家を補佐して、都で活動していたからと思われます。

このうち入道宣は趣味人で、彼が都で連歌に興じている間に、地元の妻木郷では、
家来筋で明智一族の上総介が実権を握り、妻木氏を名乗りました。

妻木の名の由来は,彼らの本貫地である妻木郷がとどのつまりのつま、すなわち端
の位置にあることからであると思われます。たしかにこの地は、三方を山に囲まれた
盆地であり、その奥は山間部となり、端が妻になり、妻木となのり、明智家からの独
立を図ったのだろうと思われます。こうして光秀の妻煕子の実家である妻木家は生
まれましたが、やはり明智一族といえます。

このように明智氏は、その軸足を都での活動に移しており、その後も領地をめぐる内紛
を引き起こしています。明智氏は光秀以前から、都にある程度の生活の基盤をもってい
たのでしょう。信長が都を制圧した初期の頃、時折光秀の屋敷に宿泊していたのは、
都に以前から明智氏が、居住していた屋敷があったからかもしれません。

私は、弘冶二年のいわゆる、「美濃可児明智出入り」の時、光秀はすでに都にいた
可能性が高いと思っています。その後の光秀の、細川氏や公家との細やかな洗練
された交流は、その証ではないでしょうか。