惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀の出自と前半生⑤)



足利直義下文(土岐文書)
下土岐彦九郎頼重
可令早領知美濃國妻木郷
多藝庄内多藝嶋榛木地頭
職事
右任祖父土岐伯耆守頼貞
法師法名存孝今月十七日譲状可令
知行之状如件以下
暦應二季二月十八日
朝臣(花押)

これは土岐文書といわれる古文書群の中で、足利直義明智頼重に、頼貞から
引き継ぐ妻木郷の知行を認めたものです。

明智氏が妻木郷を治めていたことがわかります。明智氏は美濃以外にも知行地を
持っていましたが、この妻木郷周辺を除いてすべて失っています。明智宗家は前述
したように、都で土岐宗家と共にあり、この地を一族の妻木氏に奪われ、旧領の半
分ほどで可児近くの、土岐川付近の土地に押し込められました。明智光秀はその
明智宗家になんらかの関わりを持つ者であり、所領を減少させた彼らは、都やその
周辺に新たな生活基盤を求めたと思われます。

明智軍記」という江戸時代の歴史書により、改竄されかき消されてしまった、光
秀の前半生がみえてくるような気がします。