本能寺襲撃の謎にせまる(光秀の出自と前半生⑥)
残された領地を失うこととなる。まさしく光秀自身が述べたとされる、「瓦礫沈淪」な状況
に落ちいるのである。朝倉氏に仕官した時はこういった状態だったかもしれません。
このような光秀が、妻木煕子とどのような縁で結ばれたのか定かではなく、煕子は2度目
の妻であるという説もあります。
光秀の前半生はこのようであり、土岐明智氏につながるものであることは、ほぼ確実である
といえます。光秀が信長に仕官したのちの元亀三年に、美濃にいる親類縁者が神社のあった
場所に城を作り、その祟りか体調を壊したので、快癒の為の地鎮祭を都にいる光秀に頼んで
きたのも、その裏づけになるでしょう。
繰り返しますが、光秀はかなり早い時期から、都を活動の拠点にしていたと思っています。
それが彼の連歌好きにも影響し、美的意識を熟成させ、本能寺への道を、形作るひとつの
要因になったと思えるのです。
源系の一氏族である。明智は明地ともいい、あらたに開墾した土地をさします。
本来の土地を相続できず、新たに山間部を開墾しそこに生活の拠点を見出したということは、
の拡大とともに、交通の要所である妻木郷に領土を得て移住しました。しかし後に一族の妻
木氏にそこを奪われ、更に斉藤家のゴタゴタに巻き込まれ、残った可児市近隣の土地さえも
奪われ、財産全部を失うこととなります。
光秀が生活に困窮した時期があるのを、上記のように述懐したとされるのがうなずけます。
ったかと思えるのです。
光秀が、自分の履歴を何か書き残していてくれれば、わかり易かったのですが、明智一族で
高いと考えています。
源家再興を願い、本能寺で平信長を討ち果たしたという説は、おおげさすぎるでしょう。
いずれにしろ、敗者は歴史を残せないのがこの世の常なのだ、という厳粛な事実が、この光
秀という人物の一生からもよく理解できます。
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