惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその家族①)



光秀の生年はよくわかっていません。「明智軍記」とそれを参考にして作成されたと思われる
系図書からのみ、没年時55歳であると推定されるだけです。

生年はそこから逆算するより他ないですが、信憑性に乏しく不明であるというのが確実でしょう。
没年は天正十年の旧暦六月である。山崎の戦い後、早い時期に落命しているのは確かである。

秀吉軍との戦闘は、開戦後すぐに、光秀軍の中核である、斉藤利三隊が包囲撃破され勝敗の
帰趨が決まった。開戦即敗退の状態であり、斉藤利三隊は敗走した。光秀本隊は戦線を離脱
勝龍寺城に籠るが、防御不能とみて夜半光秀らは、城をでて坂本に向かったと思われます。
これ以降のことで確かなことは、山崎の戦いの終了後、早い時期に書かれ、この部分には誇張
が見られない「惟任退治記」によれば、以下のようになります。

山科醍醐相坂。又吉田白川山中。其邊於方々。打取来首不知数。秀吉其翌日至三井
着陣。一日成滞留。及坂本行。又従諸口討捕来首。悉点検之所。其中有惟任首。
秀吉日打比本望。

光秀の首は、敗退する光秀軍が、各地の警戒網にひかかり、殲滅されその首が都に集められ、
多数あった明智側の首を悉く調べ、その中からみつけだしたとあります。

本能寺の焼け跡には、信長とその郎党の供養の為に、明智側の首三千以上がさらされたと
いいます。数十個の首を縄で結びつけ、引きずりながら本能寺に向かう、秀吉側の兵士が宣
教師により目撃されています。

その後斉藤利三は、堅田に潜んでいたところを捕まり、京童に囃し立てられながら、都を引
廻され,六条河原で斬首されました。
光秀と利三は再度、首と胴を接合され、秀吉好みの「ハタモノ」にしたてられ、粟田口にさ
らされました。その後数千の首とともに、近辺のひとつの穴にうめられたといいます。

小栗栖での、光秀の最後の様子は有名ですが、必ずしも事実ではないかもしれません。


山崎合戦図屏風
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