本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその家族①)
系図書からのみ、没年時55歳であると推定されるだけです。
生年はそこから逆算するより他ないですが、信憑性に乏しく不明であるというのが確実でしょう。
秀吉軍との戦闘は、開戦後すぐに、光秀軍の中核である、斉藤利三隊が包囲撃破され勝敗の
帰趨が決まった。開戦即敗退の状態であり、斉藤利三隊は敗走した。光秀本隊は戦線を離脱
これ以降のことで確かなことは、山崎の戦いの終了後、早い時期に書かれ、この部分には誇張
が見られない「惟任退治記」によれば、以下のようになります。
山科醍醐相坂。又吉田白川山中。其邊於方々。打取来首不知数。秀吉其翌日至三井
寺着陣。一日成滞留。及坂本行。又従諸口討捕来首。悉点検之所。其中有惟任首。
秀吉日打比本望。
光秀の首は、敗退する光秀軍が、各地の警戒網にひかかり、殲滅されその首が都に集められ、
多数あった明智側の首を悉く調べ、その中からみつけだしたとあります。
本能寺の焼け跡には、信長とその郎党の供養の為に、明智側の首三千以上がさらされたと
いいます。数十個の首を縄で結びつけ、引きずりながら本能寺に向かう、秀吉側の兵士が宣
教師により目撃されています。
廻され,六条河原で斬首されました。
光秀と利三は再度、首と胴を接合され、秀吉好みの「ハタモノ」にしたてられ、粟田口にさ
らされました。その後数千の首とともに、近辺のひとつの穴にうめられたといいます。
小栗栖での、光秀の最後の様子は有名ですが、必ずしも事実ではないかもしれません。
山崎合戦図屏風