惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその家族②)



光秀と煕子の間の男子として、確認できるのは嫡男光慶のみである。光秀の亀山城普請と
時同じくして、信頼できる一次資料に登場します。十五郎をなのる。天正九年四月細川藤孝
忠興父子に招かれ、父光秀とともに、天橋立にて遊んでいます。

同六年光秀女玉は忠興に嫁いでおり、玉を交えて舟遊びに興じ、連歌を興行し、平安貴族
同様な雅で楽しい時を過ごしたことでしょう。忠興は舅光秀に地蔵行平之太刀を進上します。

二月都で馬揃えを奉行として成功裡に導き、織田家中に光秀ありといわれ、光秀の絶頂期
であっただろうと思われます。酒がおいしかったことでしょう。この時光秀が詠んだ句です。

うふるてふ松は千年のさなえ哉   光秀

この光慶は光秀同様に、明智家の連歌好きを受け継いでいるのか、藤孝、忠興父子が天正
十年一月に坂本城を訪れた時、連歌百韻興行「さされ右の」に連衆として参加しています。

又有名な光秀の愛宕山参詣の折、興行された百韻連歌に、里村紹巴らとともに参加し、
連衆として結びの句を詠んでいます。

文弱だったのか、細川忠興と違い、華々しい戦歴はみられません。
天正十年坂本城で他の明智一族とともに自害したといわれています。