惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と秀吉④)



天正十年一月九日、坂本光秀邸にて連歌百韻興行「さされ右の」。連衆は
光秀・藤孝・紹巴・昌叱・宗及・利三(斉藤)・秀就・光慶(明智)・重儀とあります。
藤孝は、安土へ向かうことなく、翌日都の兼見邸を忠興とともに訪問し帰郷
します。

間近に控える、甲斐侵攻の手はずの打ち合わせもあったのでしょうか。
これが光秀との最後の連歌の宴となりました。

山崎の戦いの後、七月十五日、本能寺にて懐旧連歌百韻興行「墨染の」。連衆は
藤孝・紹巴・昌叱・心前・兼如・紹与・宗及・友益・道澄とあります。
光秀の連歌仲間が参加し、信長の追善興行が催されました。

発句は、「墨染の夕部や名残袖の露 藤孝」 とあります。

藤孝らの心底には、どのような感慨が去来したのかは、大変興味深いものがあり
ます。藤孝はその後、越前北の庄において、柴田勝家一族落城のおり、秀吉に
狂歌を所望され、このように詠んでいます。

     昨日まで城を修理する勝家もけふは柴たく灰と成りける

藤孝も乱世を生き抜くのに、必死だったのでしょう。そこでは信長の妹市も灰になっ
たのですが、実力者秀吉にどこまでも迎合することが、光秀の縁戚につらなる、細川
家が生き残る唯一の道であることを、藤孝は強く認識していたのでしょう。


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