惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と秀吉⑤)



光秀が本能寺で信長を討たなければ、秀吉の時代が到来す
ることはなかったでしょう。山崎の戦い以後の秀吉の天下取り
の野望は、一挙に噴出してとどまることがなかった。

信長政権が、本能寺の変後、瞬時にして崩壊するのは、信長
とその後継者、信忠の喪失のみでは考えられません。

この時期、全国統一政権樹立後にむけて、信長、信忠周辺では
組織作りが急速に進められていました。

佐久間信盛父子の、政権内部からの追放からそれは始まりましたが
未成熟なものでした。政権の政庁というものが、いまだ確立せず、
政権の中枢は常に、信長、信忠とともにありました。将来この政権を
担う人材は、旧態たる馬廻り衆として信長、信忠と行動をともにして
おり、本能寺および二条御所での戦闘でほぼ全滅しています。

軍事政権の限界がみてとれますが、それは又、信長という傑出した
個性によって、機能していた政権の限界でもありました。あまりにも
急速に拡大した為、信長後の統治システム構築に手間取っていた
のが実際でありました。明確なビジョンすなわち、九州制圧後の全国
政権の統治体制をどうするか、信長自身もいまだ決めかねていました。

その間隙を突いて決行されたのが、本能寺襲撃であり、最終的にその
果実を我が物としたのは光秀ではなく、秀吉でした。光秀、秀吉ともに
信長には敬服するが、今後生まれる織田統一政権というものには疑
問点も大きかったのでしょう。このあたりを更に詳しく考えていきたい
と思います。


織田信忠(父信長似です)
イメージ 1