惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長②)



信長の生母土田御前は、前述したように土田氏の出身であることは、信忠が
甲斐侵攻の折、可児郡の土田郷で一泊したことなどからも間違いありません。

更に信秀の父も、土田氏から正室を迎えているのですが、織田家中において
土田一族が外戚として重用されたという記録はありません。

土田氏は本拠地の可児郡以外にも、清洲城の西方に所領を持ち、萱津を商い
の場所にしていました。そこで織田氏との接点が生まれたと思われるのですが
水運業を生業とし、木曽川流域の川並衆に対しても影響力があったのだと思い
ます。土田氏の経済力は織田氏の領土拡大を支えていました。

土田氏と明智氏の関係性は意外と深かったかもしれません。
結局のところ、土田氏は生駒氏に養子を送り込み、生駒氏と一体化して家を
残していきます。土田氏は歴史の舞台から消えてしまうのですが、これは土
田氏が明智氏と縁あるものだったからでしょうか。明智氏との関係性を消し去
るために、土田の名前を故意に消したとも考えられます。

いずれにしても、土田氏と多重的に婚姻を重ねた織田氏にとって、信長を討っ
た光秀の存在と、土田氏と明智氏との縁戚関係は、信長自身も明智氏の血を
引くものとなり、抹殺すべき事実であることは容易に想像できます。

信長の実質的後継者である秀吉にとっても、考えは同じであったでしょう。

同様に、信長正室井口殿の出自が、明智家に繋がるものであるとしたら、本
能寺の変以後も、生きていたと思われるこの人物が、歴史の上から抹殺され
、「信長公記」での、信長との婚礼の記載以降、全く現れない理由が理解でき
ます。

秀吉、家康と時代が変わる中で、明智氏に係わり合いのあった人達は、その
過去を改竄したり封印し、さらには抹殺していったものと思われます。

光秀の前半生がわかりにくいのは、こういった理由があるのかもしれません。
そして、本能寺で光秀が、信長を討ち果たさなければならなかった理由とあい
まって光秀の過去、考え方、性格すらもが時の権力者から、闇の中におしこめ
られました。

本能寺襲撃の謎は、光秀の出自と係わり合いのある者たちと、時の権力者
によって故意に作られたものでした。