惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長③)



織田氏系図は、信長以降に、作成されたものが多く、その信頼性は疑わしい。
平氏を名乗るのも、信長時代になってからであり、戦国時代に広く流布していた
源平交代思想に、信長が影響をうけたことからと思われます。

確実に辿れるのは、信長の曽祖父までで、それ以前は、弾正忠家というものが
真に織田一族であったかさえも不確実である。

織田弾正忠家の惣領が、代々受継いでいく和歌があります。

    近江なる津田の入江のみのつくし見えぬは深きしるしなりけり

ここには、彼らの本貫地であるべき、越前国織田庄ではなく、近江の津田庄が
詠われています。

この津田庄は信長の天下統一の拠点、安土城から北西に向かった、湖岸一帯
の土地で、現在もその名前が残っています。

徳川家が松平氏から生まれたように、織田弾正忠家も津田氏をその源流としてい
ます。津田氏は藤原氏秀郷流の支流であり、この地に、港を作り、水運業に従事
し、穏やかな近江の田園地帯を、その所領としていたと思われます。

私はこの津田氏が、戦乱を逃れて木曽川沿いの、美濃国可児郡に移住し、水陸
運業を営み、財をなし、木曽川をくだり、津島に拠点を設けたと考えています。

琵琶湖での交易でつちかった、造船技術や、帰化人の血を受継ぐ、近江人の商
才は、この木曽川流域では並ぶものがなかったでしょう。

信長実母の土田御前の在所である、土田家もこの一族であったでしょう。彼らは
津田から土田(どた)へと名を変えたと思われます。琵琶湖畔の津田町の近くに
は、土田の町名が現在も残り、その関係性を示しています。

信長が安土に壮大な城を、普請した理由は、織田弾正忠家の本貫地である津田
庄があったからだと思えます。

土田御前は、信長よりも、弟信行を溺愛します。信行に織田弾正忠家の家督をつ
がせるべく画策します。これは、問題児である信長では、家が維持できないという
当然すぎる想いからでたものですが、結果として信行は信長に殺されます。

悲嘆にくれる、実母を見て、その罪滅ぼしか、信長は信行の子どもたちをとりたて
ていきます。とくに信澄には目をかけ、安土城に近い大溝に城と領土を与えます。

土田御前は、本能寺の変が起こるまで、安土城に住んでいましたから、この孫
が遊びに来るのを大変楽しみにしていたことでしょう。

信長は信澄に津田の名字を使わせますが、これは土田氏にとってもその出自で
ある津田氏をつがせたいという、土田御前の願いであったかもしれません。

又、信長が、かっての主家の流れをくむ、蒲生氏郷に娘を、嫁がせたのも藤原氏
秀郷流の末流につらなる津田氏が、自分のルーツであるという認識があったから
かもしれません。

織田氏嫡流は、越前織田庄を本貫地とし、守護斯波氏の被官として、尾張国
にきましたが、弾正忠家はもともとは津田氏であり、なんらかの理由で織田に改
姓したのではないでしょうか。

以上は、独断に基づく完全な私見であることを最後にお伝えします。


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