惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑧)



光秀の最初の妻は、西美濃を拠点とした山岸氏嫡流山岸光信の娘であるといいます。
これは「美濃国諸家系譜」という系図書のなかに、その記載があり、後に光秀の家臣
団のなかに、山岸一族が組み込まれているのをみると、その関係性は深く、事実では
ないかと思われます。

この山岸氏は光秀以前から、明智氏と婚姻を重ねていたようです。山岸氏嫡流は、長
江、進士とも名乗り、幕府奉公衆のなかに、その名前をみることができます。

又「明智氏一族宮城家相系図書」という系図書があり、その中に山岸勘解由左衛門
尉信周の次男が光秀であるという記載があります。

山岸氏嫡流が進士を名乗り、幕府の番帳類に進士氏一族の名前がみられることから、
光秀が、この山岸=進士の流れに連なるものであるなら、これら進士氏の一人が光秀
であり、のちに明智光秀と名を変えたという説になります。

私個人的には、光秀が山岸信周の次男であるというところに、無理があるとおもえるの
ですが、このような記述があること自体が、大変興味深く思われます。

いずれにしろ、光秀が幕府の行政機構かその直属軍に、関わりのある人間であることは
確実であるとおもわれますが、それを裏付ける良質な一次資料は存在していません。

信長が、光秀や細川藤孝を利用しつつ、都での拠点づくりと、幕府簒奪を実施し、朝廷
を管理下に置いていく事をみてみれば、藤孝同様光秀も、幕府と深く関わっていたと考
えざるをえません。