惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑦)



光秀は越前の朝倉氏に仕官し、五百貫の知行を得ていたと、細川家記に記載されて
います。しかし朝倉側の資料からは、それを示すものはなにもありません。

朝倉氏に仕官していたかどうかは別にして、光秀は越前の国にいたのでしょう。

将軍義輝になんらかの係わり合いのあった光秀は、三好氏の追及を逃れて越前に身
を潜めていたのかもしれません。細川忠興正室玉子の出生地にかかわる事でもあり、
玉子の夫や子供たちはそのように聞かされていたことでしょう。光秀夫妻、そしてそ
の子供たちが、越前にいたことは確かなことと思われます。

朝倉氏は隣国美濃で、戦に破れて逃走した国侍を庇護しています。小里(おり)氏も
その一つで、土岐氏の支流で明智家とは、領地も近接していました。

小里氏は戦に破れ、朝倉氏を頼ります。朝倉氏は戦略的な見地から、美濃侵攻の時
の先兵として使うため、このような美濃の国侍を保護し資金的援助を与えました。
小里氏は、朝倉氏の援助をうけて、美濃復帰を果たします。

このような事例を光秀は理解した上で、越前に赴いたのでしょう。朝倉氏の本拠地一
乗谷とは、別の場所になりますが、光秀家族が住んでいたと伝承される場所があり、
そこには現在、明智神社という小さな祠が建っています。

光秀家族はそこで、ひつそりと貧しいが家族水入らずの生活を送っていたのでしょう。

明智神社
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