惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑨)



信長と光秀がいつ、どこで、どのような理由で出会ったのかは明らかでない。

信長公記」によれば、永禄十二年、十五代将軍になった足利義昭がいる本
國寺が、信長が都を留守にしている間に、三好三人衆の逆襲を受け、光秀ら
がその攻撃を防いだとある。戦いは織田の援軍が駆けつけ三人衆を撃退した
のだが、この時はじめて、光秀が信長側の資料に現れます。

この本國寺の戦いがあったのが正月五日であり、四月には賀茂庄中あてに秀
吉とともに書状を発給しています。(明智資料③)

忽然と、光秀は歴史上に姿をあらわすのである。六年前に、足利義輝足軽
だったとしたら、義昭が新たに構築した行政機構といえども、織田側の有力武将
である、秀吉と連名で、幕府を代表して、書状を発給するのには疑問点が多い。

義昭、信長両陣営ともに短期間で重要なポストについているようにみえるが、そ
れをなしえた理由があったのでしょう。

光秀と信長には、なんらかのパイプが以前から繋がっていたと、考えた方が理
にはかなう。その関係性を義昭は生かしたのだろう。

(光秀=細川藤孝)ラインと信長のあいだに、どのような暗黙の了解があったの
かは、知ることはできない。権謀術数がうずまく都に、首を突っ込んだ信長にと
り、血縁関係があり、都の情勢に詳しい光秀は、大変信用でき、頼りになる人
物だったと思われます。