惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑩)



天正三年七月、誠仁親王主催による蹴鞠の儀が、禁中にて開催され、信長も参
席し終了後、信長が天皇より盃を拝領した、と「信長公記」にあります。

その後禁中より信長に官位を進められたとありますが、信長はこの申し出を断り、
考えがあって、替わりに家臣に官位を与えてもらったとあります。

七月三日、信長御官位ヲ進メラレ候ヘノ趣、勅諚御座候ト雖モ御斟酌ニテ御請
ケコレナシ。併、内々御心持候フヤ、御家老ノ御衆、友閑ハ宮内卿法印。夕庵
ハ二位法印。明智十兵衛ハ惟任日向守ニナサレ,---

とあるように信長の吏僚である松井貞勝と武井夕庵がともに官位を受けています。
同時期に、友閑が正四位下に叙されたか不明ですが、信長としては、家臣団の箔
付けを行うのが目的ですから、その可能性が高いのではないでしょうか。

夕庵は肥後守を受領していますから、同時期に従五位下に叙された可能性があり
ます。光秀は日向守を受領しています。一連の流れから見れば、信長が家臣の官
位を朝廷に依頼していることになるので、光秀も同時に従五位下に叙されたのでは
ないでしょうか。やはり任官と叙任は光秀等の在京の文官、武官ともに朝廷にたい
する工作を円滑にすすめる為に、必要だったのでしょう。

前述したように、秀吉が従五位下に叙されるのは、山崎の戦いで光秀を破り、討ち
滅ぼした後の事です。官位と叙位がリンクしているのが正式ですから、秀吉は自称
筑前守だったのでしょう。

惟任の名字を朝廷から与えられたというのは、俄かには信じがたい。同時に丹羽
長秀は惟住姓を与えられたとあるが、「信長公記」には、

丹羽五郎左衛門ハ惟住ニサセラレ、ーー

とあり、信長に無理やり押し付けられた感がある。実際、丹羽長秀もこんな名前は
名乗りたくないと抵抗感を示したといわています。

恐らくは、五月、長篠で武田軍を破りその脅威を取り除き、西方の毛利との対決に
向かう信長にとり、九州におけるかっての名族の名を、朝廷から家臣に与えられる
という行為は、毛利の背後を脅かすことにつながり、彼一流の演出であったのでは
ないでしょうか。

いずれにせよ、光秀はこれ以降、惟任日向守光秀をなのり、日常的にそれを使用
したことは、交流の深い吉田兼見の日記内の光秀の愛称が「明十」から「惟日」に
変わったことからもわかります。