惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑬)



天正十年三月五日朝暗い内に、信長は近衛前久、光秀らを伴い甲斐武田
氏討伐へと出陣します。

吉田兼見は子息兼冶とともに、近衛前久の出陣を見送ったという。この前日
に、筒井順慶らの大和衆が陣立てしたのだが、彼らはこの長征を迷惑至極
と感じていたようだ。甲斐國衆は「弓矢天下一之軍士」であるという噂があり
大変緊張した出陣であったといいます。

三月二十三日、吉田兼見正親町天皇から命じられていた、十七日間の出
陣「祈祷」を終え、戦勝祈願の手綱、腹帯を信長に届くよう、森成利(乱丸)
あてに準備し、書状を添えて、鈴鹿喜介に渡した。同時に近衛前久、光秀ら
にも届くよう、同様なものを手配して、同じく鈴鹿喜介に渡します。

しかし、三月二十三日には、武田勝頼、信勝親子の首級はすでに都に到着
しており、戦いは終了していました。甲斐武田氏の滅亡はあっけないもので
した。

四月三日、信長は甲斐国甲府の武田館(躑躅ケ崎)に布陣し戦勝祝いを行
う。同日信長嫡男信忠は、恵林寺において快川紹喜を他の禅僧ともども焼
殺する。この事件は光秀の身近で起きています。光秀と快川和尚のあいだ
には、その時なんらかの接触があったのでしょうか。

四月十日、信長は甲府を離れ、帰国の途に着く。十三日、駿河江尻、十五
日、掛川、十七日、浜松と行程を進め、二十一日安土に到着します。

三月五日から、四月二十一日まで、一ヶ月半、信長、光秀、近衛前久は寝
食をともにしながら移動したと思われます。

「甲陽軍艦」によれば、信長はこの時期に、先関白近衛前久に向かい、馬上
から暴言を吐いたという。信じがたい話であるが、このようなことが、軍学
内に記載されていることは興味深い。長年の宿敵武田氏を討ち滅ぼし、信
長の内面に、増長とも油断ともとれるなにかが生まれたのかもしれません。