惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑭)



天正十年四月十五日、吉田兼見は三月二十三日に派遣した、鈴鹿喜介の帰国
により、信長、光秀、近衛前久森成利らからの返状を受け取ります。彼らはすで
に、安土への帰路にあったのですが、近衛前久からの返書により、万里小路充房
が「勅使」として東国へ下向したことを知ります。

この信長による甲斐侵攻は、太政大臣近衛前久という、錦の御旗を押し立てた、東征
でもありました。その後、信長は東国の一部領主に対して、自分に歯向かう者は朝敵
であると宣言しています。

信長らと吉田兼見との書状のやり取りから見ても、彼らが、この期間身近なところ
にいたことがわかります。又信長が信忠軍と合流するまでは、信長とその馬廻
衆や近衛前久らを警護するいわゆる近衛軍は、光秀軍とその与力である筒井順
慶の大和衆であったことはまちがいありません。

もし光秀にこの時期以前から、信長に対し、含むものがあれば、光秀が信長を討
つ事は、本能寺で事を起こすよりは容易であったと推測できます。

又、信長も軍団の構成を、このようにしたのは、光秀を信頼していたからと思われ
ます。

この甲斐侵攻の行軍中やその帰還の折、その関係性を壊す何かがあったのでし
ょうか。