惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑫)



聖門様ヨリ両種拝領、誠過當存候。則参上仕雖申上候。
丹州ヘ指急候条、無其儀候。御取成所迎候。毎々忝存候。
恐々謹言。         
                  十月四日   光秀(花押)

                      臨江斎  床下  

この書状は、光秀が里村紹巴にあてたもので、光秀が聖護院道澄より、なにか
頂き物をし、そのお礼に伺わなければいけないのだが、丹波へ至急行かなくて
はならないから、訪問は無理なので、うまくとりなして置いてくれないかと依頼
するものです。毎度毎度かたじけないことですと結んでいます。

時期は光秀の丹波進出後だと思われます。光秀と紹巴の関係の親密さがよく
わかります。聖門様とは、関白太政大臣を務めた近衛稙家の子である聖護院
門跡道澄で、先の関白近衛前久の弟になります。後に聚楽第で秀吉と毛利輝
元が、対面したとき御同席をつとめています。

光秀が、公家のみではなく、有力門跡とも交際があったことが読み取れます。
光秀と、友人関係にある、吉田兼見の吉田家は、近衛家と家札(公家同士の間
で結ばれる主従関係)の関係にあり、近衛家関係の情報は入手しやすかったの
ではと思われます。

近衛稙家庶子の一人は、斉藤道三の猶子となり、斉藤正義と名乗りました。
正義は、美濃兼山に城をつくり、道三から東濃地方の押さえをまかせられます。

その出自に由来し、斉藤大納言と称していたようです。正義は、斉藤家の争い
に巻き込まれ暗殺されます。明智一族の長山城と兼山城は近距離にあり、なん
らかの関係性があったのかもしれません。当然光秀はこの人物のことを、知って
いたと思われます。

光秀と近衛家との関係性はこのように複線的にあり、甲斐侵攻のおり、同行し
た光秀と近衛前久とは、どのような話をしたのでしょうか。



京都 聖護院
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