惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑮)



多聞院日記は、天正十年六月二日、光秀が本能寺に信長を襲撃したその
日の筒井順慶の動きを以下のように記述しています。

順慶今朝京ヘ上処、上様急度西国へ出馬トテ、既ニ安土ヘ被歸申與欠、依
之被歸了。

順慶はこの日早朝に、京へ向かったが、信長様は西国へ出馬するとのことで
安土ヘ戻られた。よって順慶も奈良へ帰ったとあります。

その後、時系列的に、山﨑屋東武が白瓜を持って見廻りに来て、話をしたと
日記は続きます。

そして、同日に、本能寺の出来事を伝えています。奈良は京からも近く、情報
が伝わるのも速かったようです。

順慶は何のために、京へむかったのでしょうか。

順慶は当初、本能寺で信長を討った光秀に味方します。しかし細川親子の動
きを見てか、その後は中立的な立場をとり、最終的には秀吉に味方します。

順慶も光秀の与力として、甲斐侵攻に従軍しています。順慶の心の内部にも、
信長を討った光秀に同調する何かがあったと思われますが、それはこの甲斐
侵攻時に光秀の心の内部に生まれたものと、同じだったのかもしれません。



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