惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と信長⑯)



ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが書き残した「日本史」のなかに
記されている光秀の人物像は以下のようなものです。
フロイスの文章の表現力は大変すぐれ、歴史家として正確な判断力を
もっていますが、この光秀評は手厳しすぎる感があります。イエズス会
の最大の庇護者である信長を討った光秀は彼らにとって嫌悪する対象
であったのでしょう。


「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。

彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の屋敷の一貴人兵部
大輔と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵
愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。

殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く
思われていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器
用さを身に備えていた。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装する
のに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人
であった。

また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主で、選り抜かれた戦いに熟練の
士を使いこなしていた。
彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、
彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、い
ささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の
者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らは(そうではないと装う)必要がある場合
などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。

また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習
したと吹聴していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略(とい
う手段を弄すること)に精通してはいない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、
信長は彼を丹波、丹後二カ国の王に取り立て、彼(信長)がすでに破壊した比叡山
の大学(延暦寺)の全収入--それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した--とと
もに彼に与えるに至った

そして明智は、都から四レーグアほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五レーグアもあ
るかの大湖(琵琶湖)の辺りにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日
本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど
有名なものは天下にないほどであった。・・・」


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