惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料⑧



応仁元年(1467年)五月、応仁の乱が始まり、京とその近隣は戦場と
なった。京市街地での戦闘は熾烈を極め、東軍、西軍ともに堀と土塁
で防御を固め、逃げ遅れた人々は、各陣営の中に生活の場を求め、
それ以外の地域は、焼け野原となった。狭いエリアでの戦い方は、そ
れまでの個人戦から集団戦へと変化し、末端の戦闘員である足軽
大量に生み出されます。

足軽は農民を中心に寺院の奉公人らから募られ、武力集団を構成し
各陣営の傭兵となり戦います。

しかし戦闘の長期化にともない、彼らは独自の動きをとりはじめ、戦
場内で略奪行為を繰り返していくようになります。

焼け残った寺院に押し入り、建物をこわし、木材を奪い、高く売りつけ
ます。困惑した寺院は、境内の中居、小者、農民らに足軽に参加しな
いように起請文を書かせています。

彼らは、喧嘩口論などのもめもごとからくる争いのみではなく、寺院内
での賭博行為など問題を引き起こし、人々の恐怖の対象となりました。
彼らの動きは、京の都市生活の基盤を揺るがし、それは足利幕府の秩
序を解体させていきます。

そしてそれは、全国的な混乱の序章でもありました。


家具、木材を略奪する足軽
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