惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代①)



足利幕府の主要政策に、守護大名に京での在住を、義務付ける事があり
ました。守護を領国から切り離し、その力をそぐことが目的でした。

守護は領国に守護代を置き、領国経営にあたりますが、幕府は守護代
直接結びつき、その力の増大を押さえ込むこともありました。

応仁の乱で、京は戦場となり、一面の焦土となり、統治機能を失いつつあ
った幕府の影響力から離脱すべく、各守護はそれぞれの領国に戻ります。

しかし、領国経営は、守護不在の間に、守護代や有力地頭がその実権を
握り、経済力にまさる彼らが、守護を圧倒していきます。

このような現象が全国的に波及し、実力あるものが、上位の者を駆逐する
いわゆる戦国時代が到来することとなります。

幕府は、守護に対して、京への帰還命令を出し、それに逆らう守護は討伐
するのが原則でしたが、そういった全国政権を維持する機能を幕府は喪失
します。足利幕府の実質的な影響力が及ぶ地域は、京とその周辺地域に
限られました。

領国経営の実権を実力で握った守護代らは、その維持の為に、軍事力を
強化します。個人戦から集団戦へと移行した戦闘形態は、多くの兵士や武
器を必要とし、軍事費の増大を促し、その確保の為にも、彼らは隣国への
軍事侵攻を加速させます。

このようにして、弱肉強食の仁義なき時代が到来するのですが、それはま
さしく光秀や信長の時代でありました。