惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代②)



日本では、鎌倉幕府室町幕府江戸幕府とその歴史の中で、3度長期間に
わたり、軍事政権による全国統治が行われました。

その政権運営母体は、武士階級といわれる、職業軍人たちで構成される武装
集団であり、その出自は天皇家にあり、その源流となる天皇の名をとり、清和
源氏、村上源氏桓武平氏等の流れがありました。

彼らは守護、地頭として、全国に赴き地方の武装した農民を、統率管理し年貢
の徴収や治安維持等にあたりました。

鎌倉時代末期の悪党とよばれる、武装集団の出現等により、その正統性は薄
れ始め、応仁の乱以降の全国的な混乱により、信長、光秀の時代には、真に
その出自を、天皇家であると言える家は少数となりました。

更に信長そして秀吉の全国制覇の戦いで、かっての守護家、地頭家の多くは
滅亡に至り、替わって尾張、美濃系の武将が統治者となりました。

彼らの頂点にあったのが、秀吉であることを考えてみれば、彼の配下の武将
がどのような出身の人々であつたかは容易に想像できます。

信長と光秀の時代は、このように下克上の大混乱期であり、名門の家柄でなく
ても、その才覚と腕っ節の強さで、富と権力と名声を我が物とすることのできる
身分流動性のある、ダイナミックな時代でありました。

しかし、それは目的の為には手段を選ばずという、モラルなき時代であり、又
最終的には武力で決着をつけるという問題解決方法が、すべてのルールであ
り、いつ終わるかわからない戦いの連鎖を生み出した時代でもありました。