惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談⑦



幕府とは、東征する征夷大将軍の宿舎を指す。野外に幕を張り巡らし仮設住居
を設営した。江戸時代中期から、幕府という言葉が、その時代の政権を指すこと
に用いられ始めたが、それ以前は将軍の宿舎を指していました。

足利氏一門による、軍事政権も、京の室町に政庁を設けましたが、鎌倉幕府
様自らの政権を、室町幕府と呼称したことはありませんでした。

平氏は、天皇家と一体化することで全国統治をもくろみましたが、朝廷や源氏等
の反発を招き、壇ノ浦での滅亡に追い込まれました。

鎌倉幕府室町幕府そして江戸幕府と続く、統治形態は、源頼朝とそのブレーン
により構築されました。

天皇の命を受け、東征する軍団の長は、征夷大将軍であり、その作戦地域が都
から遠方であり、連絡の不便さから、将軍独自の采配で軍事警察権の行使や税
を徴収することができました。

頼朝たちは、過去の東北地方を中心とする東征軍の活動を認知していたのでしょ
う。平氏の失敗を繰り返さず、朝廷から独立した統治形態を模索し、その統治基
盤を確立する為に、頼朝は征夷大将軍に任官しました。

ところがこれがうまくいったのです。征夷大将軍という臨時的な職名は朝廷内では
決して高くない職位であり、朝廷の反発を招かず、名を捨て実を取ることに成功し
ました。朝廷の関与を排除する形での東国経営は進められ、承久の乱をへて、北
条氏を中心とした坂東平氏連合は全国統一政権を構築します。

偶然の産物であるこの政治形態は、その後も、足利氏連合、松平氏連合へと受け
つがれ、征夷大将軍任官が、全国統一武家政権樹立のシンボルとなりました。

光秀が本能寺で信長を討つたのち、朝廷に参内し征夷大将軍に任官したという話
があります。事実関係は全く不明ですが光秀の野心を感じさせる話ではあります。




(鎌倉鶴岡八幡宮における流鏑馬の儀式)

鉄砲出現以前の武士同士による個人戦は、それぞれの
騎射からその緒戦が開始されました。

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