惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代③)



応仁の乱後の、明応二年(1493年)に起きた「明応の政変」により幕府内
における、将軍の政権統治機能は失われ、細川京兆家が政権の主導権
を握りました。

それ以降、足利将軍が政権の主導権を握った勢力の、影響下にあったこ
とは間違いなく、この細川京兆家の幕府内での専制体制は、その権力の
正統性を同族である、足利将軍に求め、将軍と決定的に対立することはな
く、融和を図りながら政権運営にあたりました。

しかし、細川家の家来筋の三好一族が、幕府内での権力を握ると、将軍と
の対立が深まり、将軍権威の復活をめざす足利義輝は殺害されます。

この三好一族にかわり、京とその周辺地域を影響下においたのが、義輝
の弟、義昭を擁立して上洛した織田信長でありました。

結局、足利将軍とそれぞれの主権者は、利用し利用されの関係を続け、利
用価値のなくなった義昭を、信長が追放するのは天正元年(1573年)のこ
とです。

足利氏なきあとの都で、相対的に浮上したのは天皇と朝廷でした。その庇護
者は信長でありましたが、義昭とは違い手強い存在でありました。