惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代④)


細川忠興軍功記」によれば、

光秀公具足乍召。御参内被成。扨洛中之地子被成御免。
高札御立被成候事。

とあります。光秀が本能寺で信長を討った後、具足を着けた
まま、参内した様子が窺えます。宮中に入るには、多くの取
り決めがあり、甲冑をつけたままの参内は、非常時であるに
せよ考えにくいことです。

光秀は、天皇と朝廷に圧力をかけたのか、それとも事が成っ
た報告を急ぎ参内して行ったのでしょうか。

いずれにせよ、足利氏が去った都での最大の権威は、天皇
と朝廷であったことは疑いありません。そしてその最大の庇
護者は織田信長でした。

経済的に困窮の極みにあった、天皇と朝廷を救った信長を
、敵視する必要があったのか疑問があります。しかし足利
義昭同様、その権威の再生と維持を目指す動きも又あった
のではと推測できます。