惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑤)


明智軍記」によれば、光秀は鉄砲射撃の名手であるとの記述があります。
フロイスの「日本史」の中では、築城の名手であり、坂本に華麗な城を普請
したとあり、光秀に手厳しいフロイスが、その技術の高さを賞賛しています。

刀剣収集マニアであり、細川藤孝という、その時代を代表する知的正統が、
主催する連歌会に参加し、縁戚を結び、又荒木村重という、茶人を通じて、
茶道にも精通するという、文武に秀でた、マルチな才能を有する人物が光
秀の実像であったのでしょうか。

武功夜話」の中に、光秀の事を 古今稀に見る器量人に候なり と記
述した部分があり更に 信長公の旗下才卒衆に秀で とあります。

鉄砲の名手であることは、この資料以外には確認できませんが、光秀が
多趣多芸な人物であったことは確かで、武人としての修練を受け、その
時代の教養を身につけた、文武両道に優れた人物であったようです。信
長がその才能を、高く評価していたのが理解できます。

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坂本城は現存しませんが、光秀が城の天守から、日々眺めた琵琶湖の
景色は変わることがありません。山国育ちの光秀には、とても魅力的な
環境だったでしょう。