本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑩)
した織田軍に対し、信長は松永方の首級240ばかりを、都へ送らせます。
持ち込んだ首級は、都の中心にある足利義昭の御所に届けられ、その門
前にある桜馬場に並べられました。
都の人々にとり、梟首は処刑後、刑場の中で行うという認識があり、極めて
異常なことであり、怖いものみたさに多くのひとが集まった、と山科言継は
日記の中で述べています。
ましたが、後日この首が孫一本人のものではないことがわかり、信長は面
目を失いました。
信長上洛以前は、罪人や朝敵に対する処刑は、多くは六条河原の刑場で
夜間人目につかず執行され、刑場内に梟首されました。
平家滅亡から信長の上洛までの四百年間に、都で行われた処刑、梟首は
99例であり、決して多いものではなく、その大部分は敗者となった武将で
道賢らがあります。
うに信長上洛後は、みせしめとしての処刑、梟首と変化し、秀吉へと受けつ
がれていきます。
荒木村重の縁者に対する、容赦ない過酷な処罰は、白昼堂々、みせしめと
して行われ、都の人々や、その近隣地域に対して、反逆の末路をいましめ
とし、信長が恐れられる存在になる目的をもっていましたが、それに反発す
る人々を、多く生み出したことも否定できません。