惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑩)


元亀二年(1571年)和泉国で、織田軍と松永久秀軍との戦があり、勝利
した織田軍に対し、信長は松永方の首級240ばかりを、都へ送らせます。
持ち込んだ首級は、都の中心にある足利義昭の御所に届けられ、その門
前にある桜馬場に並べられました。

都の人々にとり、梟首は処刑後、刑場の中で行うという認識があり、極めて
異常なことであり、怖いものみたさに多くのひとが集まった、と山科言継は
日記の中で述べています。

同様に、天正四年、雑賀孫一の首を、追放された義昭の御所の前に、さらし
ましたが、後日この首が孫一本人のものではないことがわかり、信長は面
目を失いました。

信長上洛以前は、罪人や朝敵に対する処刑は、多くは六条河原の刑場で
夜間人目につかず執行され、刑場内に梟首されました。

平家滅亡から信長の上洛までの四百年間に、都で行われた処刑、梟首は
99例であり、決して多いものではなく、その大部分は敗者となった武将で
した。有名な人では、平宗盛楠木正成新田義貞、赤松満祐そして骨皮
道賢らがあります。

明智家の主筋にあたる、土岐頼遠も六条河原で処刑されています。このよ
うに信長上洛後は、みせしめとしての処刑、梟首と変化し、秀吉へと受けつ
がれていきます。

荒木村重の縁者に対する、容赦ない過酷な処罰は、白昼堂々、みせしめと
して行われ、都の人々や、その近隣地域に対して、反逆の末路をいましめ
とし、信長が恐れられる存在になる目的をもっていましたが、それに反発す
る人々を、多く生み出したことも否定できません。