惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑪)


松永久秀は、商人の出身であり、斉藤道三とは旧知の仲であったという
説がある。久秀と信長の接近の様子をみると、あながち否定できない。

久秀は三好長慶に仕え、文武の才覚で頭角を現し、家宰となります。
長慶の娘を娶り、三好三人衆とともに、長慶の死後三好家を支えていき
ます。三好家は、三好政権といわれるほどの勢力を、畿内一円に持ち、
足利将軍家をその影響下においていました。

長慶亡き後、13代将軍足利義輝は、幕府の威信回復を目論みますが、
久秀らにより殺害されます。その後、三好家内での主導権を廻り、久秀
と三人衆は対立します。劣勢にたたされた久秀は、義昭を奉戴して上洛
した信長に接近し、その傘下に入ります。

その折、久秀は名物「九十九髪茄子」を、信長に献上しています。

信長と義昭が対立すると、義昭側につき信長包囲網の一翼をになうが、
朝倉氏の優柔不断さや、武田信玄の死により、包囲網は瓦解し久秀は
信長に降服し、その家臣となります。

天正五年、本願寺攻めの最中、突如陣から離脱し、久秀は謀反をおこし
ます。信長は松井友閑を派遣し、その真意を問いただそうしましたが、久
秀は会おうとはせず、人質とされていた、久秀の孫2人は六条河原で斬
首されます。

その後、久秀の籠る信貴山城は、信忠を主将とする織田軍に攻められ、
落城の折、久秀は名物「平蜘蛛の釜」とともに爆死しました。


九十九髪茄子
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