惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑮)


キリスト教はこの時代、西国を中心に、宣教師の懸命な布教により、その勢力を
拡大していました。

信長がキリスト教を庇護したのは、その教えに帰依し、強い信仰心を持ったから
ではなく、既得権益を持つ、各宗教勢力との対抗軸に、キリスト教を据えたのに
過ぎません。

比叡山寺院の焼き討ち、本願寺勢力との長期にわたる戦い、そして、伊勢長島
や越前での本願寺門徒や僧侶に対する虐殺は、苛烈な信長の宗教政策を示し
ています。

その他に、荒木村重の残党を匿ったとして、高野山の僧侶数百名を斬り殺させ
たといわれます。安土城の女中たちが、無断で城を留守にしたのに激怒し、そ
れをなだめにきた参詣先の桑実寺の住職たちを、女中ともども殺害しています。

殺された住職には、何も罪がないように思えるのですが、天台宗寺院を信長は
心のどこかで嫌悪していたのでしょうか。

武田氏討伐のおり、信忠は、甲斐恵林寺で、快川国師以下多数の禅僧を、焼
殺しています。この時は信長も甲斐にいましたから、信長の了解あるいは、指
示の元実行されたと考えられます。宗派をとわず、虐殺が行われています。

海外でも、権力者による弾圧虐殺は、枚挙に遑がありませんが、対立する特定
宗派に限る事が多いように思われ、宗派かまわずの、信長の場合とは異なりま
す。安土城下には、教会が作られ、賛美歌が流れていたといいます。これらの
知らせに宣教師や信者は歓喜したことでしょう。

しかし信長は、恐らくキリスト教が無視できないほどの、政治的な大勢力になれ
ば、秀吉と同じく容赦なく弾圧をくわえたであろうと、容易に推察されます。

宣教師は、信長は無神論者であると断定しましたが、その指摘は正確でした。



桑実寺
イメージ 1