惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑭)



荒木村重松永久秀ともに、主君は信長であり、その信長に対す敵対行為
は、裏切りであり断罪されるものである、という考え方は、戦国時代の彼ら
には存在しませんでした。

江戸時代に確立される、儒教思想的武士道は、平和の時代の思想であり、
彼らが生きた戦国時代の上下関係は、すべてがパワーバランスの産物で
した。

弱者は必ず強者に侵食され、その強者も更に強大な勢力に呑み込まれて
いきます。その中で善悪を規範とする行動をとれば、真っ先に餌食になる
事は明瞭でした。

そういう時代の申し子が信長でした。彼が何故自己の強大化を、図ったの
かは、その根拠は説明できませんが、彼は自分が弱体化すれば、ただち
に抹殺されるであろうと強く認識していたのでしょう。その潜在的意識を表
現したのが天下布武で、拡大路線を突き進まなければならない、自分を強
く鼓舞し戒めた四文字でありました。

細川藤孝筒井順慶そして中川清秀らが光秀に味方しなかったのは、光
秀には勝算がないと判断したにすぎません。本能寺の変以降の、都の人
々の情勢判断は、そのままこれらの武将の判断と同じでした。
(光秀とその時代⑨)

天下布武印)


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