本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑯)
太嶺院の僧、密宗宗顕が建立したといわれます。(濃州余談④)
その後焼失し明暦二年(1656年)に再建されています。この僧密宗は光
秀の叔父であったと言われています。
この建物の脇にある、入浴が開始される時を知らせる、浴鐘楼は春日局に
より寄進されましたが同じく焼失しました。京都信行寺にあった鐘楼を移
築したのが現在の鐘楼ですが、これもまた春日局が信行寺に寄進したも
のでした。
「正法山宗派図」によれば、密宗は妙心寺発展の基礎を作った、鉄山和尚
の門下であり、この鉄山、商化などの名僧とならぶ妙心寺僧のなかに、一
宙東黙がいました。
あるという説があります。一宙は妙心寺79世になりましたが、この二人は
ます。(光秀の出自と前半生②)
山崎合戦後、妙心寺内に、光秀の側室の子を匿ったといわれていますが、
事実関係は全く不明です。
浴鐘楼