惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑯)


光秀と臨済宗妙心寺派との結びつきは強固であった。明智風呂について
はすでに述べていますが、この建物は光秀の没後、天正十五年に、塔頭
太嶺院の僧、密宗宗顕が建立したといわれます。(濃州余談④)

その後焼失し明暦二年(1656年)に再建されています。この僧密宗は光
秀の叔父であったと言われています。

この建物の脇にある、入浴が開始される時を知らせる、浴鐘楼は春日局
より寄進されましたが同じく焼失しました。京都信行寺にあった鐘楼を移
築したのが現在の鐘楼ですが、これもまた春日局が信行寺に寄進したも
のでした。

「正法山宗派図」によれば、密宗は妙心寺発展の基礎を作った、鉄山和尚
の門下であり、この鉄山、商化などの名僧とならぶ妙心寺僧のなかに、一
宙東黙がいました。

一宙は、牧村利貞の弟と言われていますが、春日局の父、斉藤利三の弟で
あるという説があります。一宙は妙心寺79世になりましたが、この二人は
天正十年段階では、妙心寺にいて、京内での戦闘が終了し、集合地点であ
ある妙心寺に引き上げる、明智軍を迎えたとおもえます。(光秀と信長⑪)

明智氏妙心寺との関係は深く、光秀妻煕子は妻木氏の出身であり、妻
木氏の菩提寺である崇禅寺住職には、大本山妙心寺に出世した僧があり
ます。(光秀の出自と前半生②)

山崎合戦後、妙心寺内に、光秀の側室の子を匿ったといわれていますが、
事実関係は全く不明です。


浴鐘楼
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