惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料⑯


覚書内における、明智氏関係の主要人物の記述は以下の様である。
さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、 くびハ
うちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、 をもてへはいり候へバ、ひ
ろまニも一人も人なく候。 かやばかりつり候て、人なく候つる。

弥平次殿とは、明智秀満のことで、秀満の母衣衆二人が、戦闘の場
で、光秀の指示を、兵士に伝えている事がわかります。

恩賞の対象である首級を、捨てろと厳命している。この時点では、信
長をいまだ討ち取ってはいなかったのだろう。緊迫した様子がわかり
ます。

うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、 のぶながさまとハ不
存候。其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。
 
上様は白いお召し物を身につけている、と女中が述べていたが上様
が信長さまだとはわからなかったと言っています。その女中を斉藤利
三に引き渡したとあり、最前線に斉藤利三がいたことがわかります。

本城たち下級武士には、攻撃対象が全く説明されていなかった事が
みてとれます。

覚書全体からは、本能寺内は閑散としており、ところどころで散発的
な戦闘がおきていたように感じられます。

秀満の部隊と利三の部隊が混在して、信長の小姓衆と戦闘していた
とは考えにくく、督戦に秀満が来たのではなく、二人の秀満の母衣衆
が光秀の指示を伝えにきていたと考えられます。

戦場では母衣衆が命令を伝達する時、その危険度に応じて、二人一
組で行動することがありました。