惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

2014-05-14から1日間の記事一覧

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑱)

今の京都と違い、天正十年の京都は、田畑が多く、信長が宿泊地とし た本能寺周辺は、田畑であった。この法華宗寺院は前面に門前町を 持ち、正門前に、村井貞勝の屋敷がありました。 下京に向かう道が、数本走り、寺院ではあるが、周囲に堀を廻らし、 防御機…

明智資料⑰

母衣とは、甲冑の背中につける、縫い合わせた長い布で、騎上の武士 を流れ矢から守る、実用的な装備でありました。 母衣を身に着けて戦死した武士の首は、母衣で包むのが、敵味方とも に決まりでした。 騎射が廃れた、応仁の乱以後は、装飾的な視覚効果を狙…

明智資料⑯

覚書内における、明智氏関係の主要人物の記述は以下の様である。 さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、 くびハ うちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、 をもてへはいり候へバ、ひ ろまニも一人も人なく候。 かやばかりつり候て、人なく…