惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談⑮


本城惣右衛門有介は丹波に生まれる。悪しき育ちであり、山賊を生業とし、
盗人稼業にいそしみ、殺害した女子供の数は限りなしと自ら述懐している。
若い頃は相当な悪であったようです。

しかし、この覚書を親族あてに残した時は、かなりの高齢であり、本人も

「地獄ヘハ定マリ申シ侯、臆病ハ致シ申マジク侯。タダ願ヒ申侯儀ハ
比丘ニ祈リ申スベク侯」

と改心し、強がってはいるが、仏のご加護にすがっています。

光秀の丹波平定後、その配下となり、斉藤利三の与力であった、神尾山
城主、野々口清親(西蔵坊)の家臣となり、本能寺襲撃時には、その最前
線にいました。

この野々口清親という人は、使僧として交渉ごとにあたったり、山国丹波
武将らしく、光秀の命で、都で使う木材調達の業務にあたっています。

光秀配下の下級の武士はこの本城のように、ごろつき同然の出自の者が
多かったのでしょう。光秀が明智軍法を制定した理由がよく理解できます。
明智資料⑥)


神尾山城跡
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