惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料⑱


本城惣右衛門覚書内に記された、本能寺の変関係の内容は、要約
すると以下のようです。

①本能寺に一番乗りしたのは、我々であり、信長を狙うとは夢想だに
しなかった。

②秀吉と毛利との戦闘に、光秀は援軍として赴くところでした。

③山崎の方向へ向かうと思っていましたが、京都へ行くよう命令され
ました。本能寺が目的地であるとは知らず、(軍装を戦闘時のものに
変更しましたので)、これは家康を討つ為だろうと推測しました。

④その軍列の中に、騎乗した斉藤利三の子息がいました。我々はそ
のあとについて、河原町へ入っていきました。

⑤その後、子息は北へ向かい、我々は堀ぞいに東へ向かいました。

⑥本能寺正門に通じる本道へでると、堀を渡って境内に通じる橋が
あり、そのたもとに人が一人いたのでその首をとりました。

⑦首をもったまま、橋を渡り、すでに開いていた門から境内に入りま
したが、そこには誰もいませんでした。

⑧境内には、明智秀満の母衣衆が二人いて、首を捨てろと命令され
たので、本堂の下に投げ入れ、本堂の正面から建物の中に入りまし
た。中には蚊帳が吊ってあるだけで、誰もいませんでした。

⑨(室内を捜索していると)庫裏の方で女中を一人捕まえました。女
中は「上様は白い着物をお召しになっている」と言いましたが、我々
はその上様が信長のことを指しているとは思いませんでした。
その女中は斉藤利三殿に渡しました。

⑩信長の小姓がニ三人、袴に片衣で股立をとり、本堂へ入ってきまし
た。

⑪その内の一人は帯もしておらず、浅黄色の帷子を身につけ、我々
に抜刀して向かってきましたが、そこに我々の味方が、多数本堂に入
ってきましたので、彼らは崩れ逃げました。

⑫我々は吊ってある蚊帳の陰に隠れ、小姓たちが出てくるのを待ち、
でてきたところを背後から斬りました。

⑬その者の首をとり、本堂下の首と合わせて、二個の首をとり、褒美
として槍を頂きました。

⑭野々口西蔵坊の配下であった時のことです。