惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑱)


今の京都と違い、天正十年の京都は、田畑が多く、信長が宿泊地とし
た本能寺周辺は、田畑であった。この法華宗寺院は前面に門前町
持ち、正門前に、村井貞勝の屋敷がありました。

下京に向かう道が、数本走り、寺院ではあるが、周囲に堀を廻らし、
防御機能も有していました。

襲撃を成功裡に導く為には、逃げ足の速い信長の退路をいかに断つ
かが重要であった。浅井氏の裏切りにより、袋のねずみになった信長
は秀吉、光秀に殿軍をまかせ、単騎で都へ逃げ帰ったといいます。

緊急時には、寝間着のまま、戦場に向かう信長である。危機を察知す
れば、あらゆる手段を講じて逃走したと思われます。

明智秀満の部隊の、本能寺南方へのすみやかな布陣、ならびに検問
体制の構築が、この襲撃を成功に導く鍵でありました。

この時代の京都では、各町衆が、それぞれの町内の出入り口に木戸
を設置し、なかには櫓をたて、盗人等の不審者の侵入を防いでいた。

秀満の部隊は、恐らく、この木戸の管理人を切り捨て押し通り、全速力
で本能寺に向かい、途中遭遇する農民、町衆らを切り捨てながら、暗い
内に、本能寺南方に布陣を完了したとおもわれます。

これを許した信長の油断はどこからきたのでしょうか。下京への道を
押さえられた信長は、完全に退路を断たれました。

秀満の部隊の、本能寺南方への展開が完了すると同時に、本能寺
北門から、斉藤利三とその馬廻りが突入し、戦闘が開始されました。