惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常①)



明智光秀とこの人物の事を、現代の我々は呼び習わしています。永禄十二
年(1569年)、明智十兵衛尉として歴史の舞台に登場した、この人物は天正
三年(1575年)、惟任日向守光秀と名を変え天正十年(1582年)最後を迎え
るまでこの姓と名を使います。(明智資料③)

十兵衛尉は,仮名(けみょう)であり、諱を使わない為に用いられた。室町時
代末期は宗教の暗黒時代で、諱(本名に近いもの)でその人を呼ぶことは、
その人の霊的なものを支配することに繋がる、と信じられていました。

諱は主従間や親子間でのみ用いられ、それを他者に知られることは、呪詛
の対象にされる恐れがあり、特別な関係者以外にそれを知られることを避
けました。

光秀という名も同じで、諱を避け、織田家臣に多くみられる、秀を用いました。
羽柴秀吉丹羽長秀、長谷川秀一、堀秀政福富秀勝、河尻秀隆らも秀吉を
除いて、諱は別にあり、秀を用いて織田家臣を強調し、諱を秘しました。

この秀は信長父信秀から来ているのではと思われますが、確かな事はわかり
ません。光秀の光は、明智一族では多く見られていて、光は本来のものである
と思われます。

これから、光秀の本姓は源朝臣光〇で、諱は光〇で、本貫地である、明地郷
を名字とし、明智光〇が光秀そのひとであったと思われますが、それを示す資
料はありません。

光秀もある時期、細川藤孝がその所領地の名を取り、長岡藤孝と名乗ったよう
に、幕府内部で△◇光〇と名のっていたかもしれません。

松田主計允光秀とか狩野伊豆守光茂とか光の一字をもつ人物が数名みうけら
れますが、光秀との関係性は想像の域をでません。
進士氏とは縁戚関係もあり、可能性はあるのですが、それを裏付ける資料は同
じくありません。

幕府内部の誰かが、光秀であったと言う説は説得力があり、その後の光秀の行
動が理解しやすいのですが、「永禄六年諸役人附」のなかからは、断定できる人
がみあたりません。(明智資料⑤)